赤ちゃんポストに老人が捨てられる日

熊本市慈恵病院が設置した国内初の「赤ちゃんポスト」(こうのとりのゆりかご)が運用を開始した5月10日に3〜4歳の男児が預けられる事態が発生した。新生児以外が預けられる可能性を想定していなかった運営側の戸惑いが見て取れる。

朝日新聞の報道によれば男児は父親に連れ添われて福岡から来て、父親からかくれんぼをしようと言われて、ポストに入ったという。自分の名前や年齢も告げており、身元が判明しているわけだ。赤ちゃんポスト運営の前提として、意思疎通が出来ない新生児であれば身元の確認のしようがないという考えがあったと思うが、この男児の父親は身元が判明しても構わないと考えたことになる。最初は、赤ちゃんポストに子供を預けそのまま自殺したのではないかと危惧したのだが、そうした報道は今のところなされていない。すなわち、この男性は子供の身元が判明しても自分が非難されることはなく、他人が子供の世話をしてくれると期待したと考えられる。

この考えを敷衍すると何も赤ちゃんポストに預けるのは新生児でなくても構わないことに気づく。たとえば、認知症などで日頃の介護が不可欠な年老いた親などはどうだろう。日頃の負担が重荷になっていて、それでも自分が世話をしなかったら誰が親の世話をするのだとの義務感で世話を続けてきた人々がいる。彼らに誰か善意の他人が無料で親の介護をしてくれて、自分が非難されることがない制度が利用可能だと告げれば、利用したいと考える人も多くいるだろう。

まさに現在の姨捨山(乳母捨て山)である*1姨捨山と異なるところは、捨てた親がオオカミに食い殺されるわけではなく、病院によって保護されると言う点にある。利用者の心の葛藤はずっと小さいものとなるだろう。年老いた親の介護に疲れ無理心中を図る事件が多発しているが、そのような悲劇を減らすことが出来るのであれば、そのような制度があってもよいはずだ。

もちろん、これに対する反対意見もあるだろう。「親の介護をするのは子の義務であり、それを投げ出すことを助長するようなポストの設置は認められない」。そのとおり。ただ「子育てをするのは親の義務であり、それを投げ出すことを助長するようなポストの設置は」認められたのだ。保護責任者遺棄罪に関する議論も同様である。この2つのどこに本質的な違いがあるというのだろうか。

実は社会という面で見れば純然たる違いがある。赤ん坊は将来その社会を担う大人に成長し、社会に何らかの貢献をしてくれることが期待できる。そのため社会がコストを負担しても、赤ん坊を育成する方が社会全体としてプラスだという考えがある。一方、余命幾ばくもない老人はおそらく社会に貢献することはほとんど無い。そのため社会がコストを負担することは直接的には正当化されない。

社会的に見れば上記のような違いはあるものの、人道的見地からいえば両者に違いはないはずだ。どちらも諸般の事情により育成や介護が困難になった人物が、彼らの子供や親を無料で第三者に委ねる事ができる制度である。少子高齢化の進行を鑑みれば、むしろ後者の方がニーズがあるとも考えられる。赤ちゃんポストが社会的な観点と言うよりはむしろ人道的観点から設置されたことを考えると、老人ポストが設置される、ないしは「こうのとりのゆりかご」の対象が新生児だけではなくより拡大されても構わないと言うことになる。

ある日、赤ちゃんポストに老人が座っていることが発見されたらどうしますか?

*1:有料の姨捨山ならすでに全国に多数存在する。特別養護老人ホームである。多くの場合、入所時にはしばらくの間ということで入所するが、介護負担から解放された家族が再度の負担を倦厭し、本人が楽しんでいる等の理由を付けてずるずると入所を継続するケースが多いらしい。一方、預けられる高齢者の側も、家族への負担に対する負い目から入所を継続する場合が多いそうだ。特別養護老人ホームの料金は比較的安く、施設に長年入っているとむしろ年金から貯蓄が出来るという。家族にしてみれば、日頃の介護の負担はなくなり、高齢者の死亡時には増えた遺産も手に入るとあれば利用しない手はない。自宅介護の場合は介護の重い負担がある上、年金を貯蓄に回す余裕は通常ない。経済的にも特別養護老人ホームに入所してもらった方が得なのである。こうして、入所者の8割がそのまま施設で最期の時を迎えるという。それが彼もしくは彼女に取って幸せだったのかは、入所する施設や周囲の人間によって大きく変わるので是非については一概には論じられない。