人間を定義するのに必要な記憶容量

LM-72007-05-24


一人の人間を定義するのに必要な記憶容量はどのくらいだろうか。Schefferは恒星間飛行を低コストで行うために、人をデータの状態で転送するアイデアを論じた論文の中で、一人の人間の心を記録するのに必要な記憶容量について見積もっている。

基本的にはあらゆるニューロンシナプスの状態が記述できれば、脳の挙動を予測するのに十分な情報量であることが、近年の脳科学研究により判明している。脳に含まれるニューロンシナプスの正確な数を見積もることは困難だが、Ackerman*1、Hall*2、Nicholls*3らによれば成人の脳には1011ニューロンと、1014シナプスが含まれると見積もられる。多めに見て、1012ニューロンと、1015シナプスがシミュレートできれば良いだろう。

ニューロンとそれに関連するシナプスの状態を表すのに必要なビット数はどの程度になるだろうか。ニューロンシナプスにおける化学物質の放出によって他のニューロンを発火させる。シナプスの活動状態によってシナプスの伝達効率が変化するシナプス可塑性が記憶や学習に大きな役割を担っていると考えられている。

ニューラルネットワークをモデル化するにはどうすればよいだろうか。Hopfield*4によって論じられた最も単純なモデルではそれぞれのニューロンに対し状態を表す1変数と、それぞれのシナプスに対しウェイトを表す1変数しか利用しない。一方物理的な正確性を求めたMacGregor*5,*6による典型的なモデルではそれぞれのシナプスを表すのに4変数用いている。1つはシナプスの強度で2つは他のニューロンのターゲット領域であり、残りの1つは励起時間である。MacGregorは、ニューロンの状態を表現するのに4つの変数を利用しており、さらに4つの変数がニューロンのそれぞれのcompartmentの内部状態を表すのに利用される。

シナプスニューロンは同程度の状態を持ち、ニューロンに比べて103倍ものシナプスが存在することから、シナプスが必要な記憶容量のほとんどを占めると考えて良い。シナプスを表現するのに必要なbit数は比較的小さい。

シナプスの発火時には、おおよそ106神経伝達物質の分子が、5,000分子から構成される2〜300のquantaという形をとって放出される。放出される分子の数を正確に記すには20bit必要となるが、quantaの平均個数を指定できれば十分なので、シナプスウェイトあたり8bitもあれば十分だろう。MacGregorのモデルではそれぞれのシナプスは2つのcompartment ID(それぞれ数bit)、ターゲットニューロンID(おそらく人間の脳で30bit)、励起時間(ウェイトとおそらく同程度のbit)を有する。すなわち50〜60bitがこのモデルにおいては十分であると考えられる。その他の既知のMacGregorモデルに含まれていない特徴は、シナプスの物理的な位置と、正確にどの神経伝達物質が放出されているかという点だ。すべてを考慮すると、効率的な符号化を行ったとして、それぞれのシナプスはおおよそ100bitで表現できると考えられる。見積もりの最大数である1015シナプスの個数を乗じて、おおよそ1017bitが脳の状態を表現するのに必要ということになる。

決定性機械においてあらゆる内部状態は初期状態とそれまでのすべての入力が与えられれば再現できる。内部状態を直接表すよりも、初期状態にすべての入力を与える方が、少ないビット数で済むだろう。これはコルモゴロフ複雑性(Kolmogorov complexity)の特別なケースである。

これはアナログシステムにも応用可能で、送信側が初期状態とその後の入力を受信側に伝達する場合を考える。送信側と受信側双方で予測演算を行い、現実が予測からずれる場合に、そのズレを補正する補正値を送るとする。こうすることで、何の予備知識もなく内部状態を記述するよりも、少ないビット数で済む。ただし、こうしたアプローチは比較的安定したシステムでは上手く働くが、カオス的な挙動を示すシステムでは、予測が困難なためうまくいかない。

人間の脳はカオス的なシステムなのだろうか?人間の脳は極めて複雑なシステムなので、ある程度カオス的な挙動を示す部分もあるだろうが、一卵性双生児が同一の初期状態からスタートし一緒に育てられた場合、離れて育てられた一卵性双生児よりも互いによく似るし、離れて育てられた一卵性双生児はランダムに抽出された2人よりも互いに似ている。そして一緒に育てられた双子でさえ、同一の経験を有しているわけではない。これは小さな違いは個性に小さな変化しか及ばさない事を暗示しており、大部分の人間の振る舞いはカオス的ではないことを示している。つまり、初期値と入力によって状態を表すアプローチによって、必要とされる記憶容量をさらに削減できそうだ。

人は4x109bitの遺伝情報によって誕生する。これが初期値となるが次に述べる入力の方がオーダが大きくなるので無視できる。その後の入力の大部分が視覚情報によって占められており、目がハイビジョンと同程度のビットレートを有しているとする。ハイビジョンのビットレートは106bpsとして100歳、すなわち3x109秒生きた人の全経験量は3x1015bitより小さくなるはずだ。

入力値の見積もりの仕方によってこの数値はもっと小さく(そしておそらくより現実的な値に)なる。たとえば速読の達人は1秒間に100word程度読むが、100歳の人が1日16時間速読を続け、すべて記憶していると仮定しても1012bitもあれば足りることになる。
また、生まれながらに目が見えない人は入力のほとんどを耳から得るが、その場合入力値の総和は6x1014bitとなる。

すなわち、最大限大きく見積もっても、100歳の記憶の完璧な人の脳の状態を表すのに必要な記憶容量はおおよそ1015bit、すなわちPbitのオーダとなる。これは近年の記憶装置の大容量化を考えると驚くほど少ない。

現在個人で1Tbyteのハードディスクを入手することはたやすい。Seagate副社長による毎年40%ずつHDD容量が増加するとする未来予測を信じるならば、およそ20年で1PbyteのHDDが普通に入手できるようになる。それだけの容量があれば、HDDにいくつもの人格を蓄積することができるのだ。

うまくいけば、永遠にコンピュータネットワークの中で生き続けるという事が可能になるかも知れない。

*1:Ackerman, S.: Discovering the Brain. National Academy Press, Washington, DC. 1977

*2:Hall, Z.: An Introduction to Molecular Neurobiology. Sinauer Associates, Sunderland, Massachusetts. 1992

*3:Nicholls, J., Martin, A. and Wallace, B.: From Neuron to Brain (3rd ed.). Sinauer Associates, Sunderland, Massachusetts. 1992

*4:Hopfield, J.J.: Neural networks and physical systems with emergent collective computational abilities. Proc. Na. Acad. Sci. U.S.A., 79, 2554. 1982

*5:MacGregor, R.J.: Neural and Brain Modeling. Academic Press, San Diego. 1987

*6:MacGregor, R.J.: Theoretical Mechanics of Biological Neural Networks. Academic Press, San Diego. 1993