バイオハザードは防げるか?

(acme)


AFPBB Newsが伝えたところによれば、広範囲薬剤耐性(XDR)結核に感染した米弁護士が、感染の診断を受けてわずか2日後に、渡航を禁じられたにも関わらず、結婚式と新婚旅行のため海外に渡航した。米国疾病予防管理センター(CDC)は、渡航先のイタリアで彼に連絡を取り、彼が大半の抗菌剤が効かない菌に感染していることを告げ、即座にイタリアの隔離病棟に入院するよう求めたが、彼はこれを無視、プラハモントリオールを経由して米国に帰国した。帰国後彼は即座に身柄を拘束され隔離、コロラド州の病院で治療を受けることとなった。

感染を知りながら、渡航を断行した彼の身勝手さは非難されてしかるべきだろう。特に、航空機内という密閉された環境では空気感染の可能性が飛躍的に高まることが予想され、スーパー・スプレッディング現象が発生すると乗客を中心に感染が急速に広がる危険性もある。弁護士である彼は、隔離が米国憲法違反である可能性を認識し、現行法に基づいて彼の渡航を止めることが出来ないことを理解した上で、今回の行動を起こしたわけだが、バイオハザード(生物災害)の危険性を過小評価した蛮行であると言わざるを得ない。

日本においても以前、エボラ出血熱(Ebola haemorrhagic fever)の感染を疑われる症状を訴える患者が、アフリカから帰国後、関西空港から直接大阪大学付属病院の外来に診察に訪れ、病院関係者に緊張が走った事例がある。本来そうした患者は特定感染症指定医療機関である市立泉佐野病院に隔離搬送されなければならないが、彼は公共の交通機関を用いてのこのこと阪大病院まで移動したのである。しかも阪大病院はエボラ出血熱の治療体制を備えておらず、もし本当に彼がエボラ出血熱に感染していたとしても何も出来なかった可能性が高い。幸い彼はA型肝炎に感染していただけで、エボラ出血熱では無く事なきを得た。

エボラ出血熱、クリミア・コンゴ出血熱、痘瘡、南米出血熱、ペスト、マールブルグ熱、ラッサ熱の7つの疾患は感染症予防法において一類感染症に分類されており、特定感染症指定医療機関もしくは第一種感染症指定医療機関でしか治療が行えない。特定感染症指定医療機関は、成田赤十字病院国立国際医療センター市立泉佐野病院の3機関しかなく、病床数はわずかに8である。

感染が疑われる患者が発見されると、内部が陰圧に保たれたアイソレータで隔離されて、すみやかに専門の設備を有する指定医療機関に移送される。アイソレータは気密が保たれているが、万が一気密が破壊された場合でも、内部圧力が外界に比べて低く保たれているので、ウィルスが外部に漏れることがないように設計されている。医者などの医療従事者は防護服(レベルによっては陽圧に加圧される)を着て患者の治療に当たる。特定感染症指定医療機関もしくは第一種感染症指定医療機関には陰圧に保たれた隔離病室が完備されており、エボラウィルスなどの致死性の高いウィルスが病院外部に漏れ二次感染が広がることを防ぐ。隔離病室は二重ドアもしくはエアロックにより隔離されており、内部への進入は厳しく制限される。

たとえば、市立泉佐野病院感染症センター高度安全病室は次の設備を有する。

  • 各室前室・洗い・シャワー付き
  • ナースステーションとの双方向テレビモニター設備
  • 前室陰圧(5mmAq)
  • 病室陰圧(10mmAq)
  • 清浄度クラス10,000
  • 各室独立した排気ファンを有し、3重のヘパフィルターを通し紫外線滅菌後排気
  • 排水は高圧蒸気滅菌槽で滅菌後排水

エボラウィルスなどの危険なウィルスを扱う機関はバイオセーフティーレベル(BSL: biosafety level)によって1〜4の4段階に分類されている。最も高いBSL4を有する施設はアメリカCDCを始め11カ国で稼働しているが、感染症対策は事実上CDCに大きく依存している状態だ*1。日本においても国立感染症研究所がBSL4設備を有するが、施設近隣住民の反対によりBSL3レベルでの稼働しか出来ていない。BSL4病原体感染患者の確定診断や検査法開発、基盤的研究を行うことができない状況であり、未知の新興感染症に対して、ウィルス分離やその後の解析による病原体の迅速な同定も行い得ないのが現状である。

数年前のSARSの流行により、日本国内でもエマージングウィルス対策への関心が高まり、アイソレータの導入や感染症指定医療機関の整備などが進められてきた。しかし、空港では多少熱っぽくっても申告する人は稀で、たいていの人々はそのまま検疫をすり抜け入国してしまう。そうした行動が引き起こすであろう潜在的リスクを過小評価しているのだ。

仮に日本国内でBSL4ウィルスの爆発的感染が発生した場合、打てる手はほとんど無い。設備も薬も人員もマニュアルも何もかも足りない。そして恐ろしいことに、航空機などの交通機関の発達、人の移動頻度の増加に伴い、バイオハザードが現実に起こる可能性は日々増加している。いざバイオハザードが発生した時に我々は何が出来るだろうか。

*1:冒頭の米国人弁護士の結核の感染経路だが、CDCにおいて同結核菌の研究を行っている彼の義理の父が疑われている。これが事実だとすれば、BSL4のCDCからの病原菌の漏洩という大問題である。