忘れ去りたい記憶だけをピンポイントに消す薬

LM-72007-07-02


Telegraph"Scientists find drug to banish bad memories"で報じたところによれば、特定の記憶のみをピンポイントに消去する薬の開発が進められているという。

誰しも忘れてしまいたい記憶の一つや二つを持っているだろう。定期的に思い出しては、なんと愚かだったのだろうと叫びたくなるものだ。街中で叫んでしまうと怪しい人と思われるので注意した方がよい。望まない記憶だけを選択的に消去できる薬があるとすれば、是非とも試してみたいと思う人は多いだろう。

長期間記憶を保持するためには一度思い出して、再度記憶するというプロセスを経て記憶を強固にする必要がある。患者が消したいと思う記憶を思い出している時に、この再記憶プロセスを阻害する薬を患者に投与することによって記憶を操作することが可能なのだ。これは心的外傷後ストレス障害などの精神障害に罹る患者を治療する特効薬となりうる。

Psychiatric Researchに掲載されたマギル大学ハーバード大学による研究では、トラウマの犠牲者の記憶を鈍らせるのに記憶喪失薬を利用した。研究グループは、通常は心臓疾患による高血圧を治療するのに利用されるが、記憶障害を起こすことでも知られているプロプラノロール(propranolol)を利用した。彼らは19人の酷い事故やレイプ被害者に10日間にわたって、プロプラノロールないしは偽薬を与え、10年前に起こったトラウマとなった出来事を描写するよう依頼した。そうすると、プロプラノロールを処方された群では、トラウマを思い出している時のストレスから生じる心拍数の上昇などの反応が緩和されていることが確認された。プロプラノロールは記憶の感情的な部分を弱める作用があり、彼らは未だトラウマとなった出来事の詳細を覚えているが、感情をうまくコントロール出来るようになっていた。

一方、ニューヨーク大学のJoseph LeDoux教授が率いるチームは、ネズミを用いた実験でその他の記憶を保ったままで特定の記憶だけ消去することに成功したと報告した。実験においてネズミは2種類の特定の音色と弱い電気ショックと関連づけて記憶するよう訓練された。訓練によってネズミはどちらかの音色を聞くと、電気ショックに対して身構えるようになる。記憶喪失薬の投与後、ネズミは1つめの音色を聞いても電気ショックと関連づけられなくなったが、2つめの音色を聞くと以前と同様に電気ショックに対して身構えた。これは特定の記憶だけ消去されていることを示している。

英国議会科学技術室(POST)は、このような記憶改変薬の乱用を防ぐために厳密な規制をもうける必要があると警告している。健康な人々がこうした薬に安易に頼り、現実から逃避することを懸念しているのだ。誰しも忘れたい記憶をもっているが、逆にそうした経験があるからこそ、成長しているという面もある。都合の悪い記憶を片っ端から削除してしまうと、人間の人格形成上まずいことが起こるのではという懸念は妥当なものだ。

例えば脳の側頭葉に障害が生じると、言いようのない幸福感が訪れ、神秘的体験を経験することが知られている。ラマチャンドランの『脳のなかの幽霊 (角川21世紀叢書)』でも紹介されているが、側頭葉てんかん患者の側頭葉に電極を刺して電気刺激を与えると、患者は宗教的体験ないしは神秘的体験と表現される意識体験をする。歴史上の宗教家や芸術家の中でも、側頭葉への障害が疑われている人物がおり、神秘体験として伝えられている事の何割かは脳内で生み出された幻想であったのではないかと考えられている。幸福感に包まれたいのならば、脳にちょっと細工をすればよい。そうすれば総ての苦悩から解き放たれた幸せの世界が待っているのだ。神秘体験を経験した患者達には、明らかに性格の変容が確認され、彼らは以後神とともに生きることとなる。

もっとも、それが本当に幸せかどうかは分からないが。