『火垂るの墓』に対するロジャー・エバートのレビュー

1年前のエントリ「『火垂るの墓』に対する最も参考になる米Amazonレビュー」は多くの関心を集めた。最近でも「日本視覚文化研究会」で再度取り上げられるなどアクセスが続いている。一方、1年前556だった米国Amazonのレビューは1年を経た現在581までその数を伸ばしており、高評価を維持している。日本のAmazonにおいても米国に比べれば数は少ないが良いレビューが集まってきている。

実ははてなブックマークid:saike氏のコメントで知ったのだが、『火垂るの墓』に関しては米国で最も著名な映画評論家の一人であるロジャー・エバート(Roger Joseph Ebert)が自サイトにおいてレビューを掲載している。心情に訴えるという面では米Amazonレビューの方が優れている面もあるが、『火垂るの墓』に対する著名海外映画評論家による専門的で論理的かつ客観的な評価が良く分かる素晴らしいレビューなので、以下に全文を訳出する。日本のアニメーションでは一般的な情緒的演出はなじみのない外国人にとってはやはり異質に映るようだが、それがもたらす効果は万国共通であるようだ。

火垂るの墓(1988)

ロジャー・エバート / 2000年3月19日

第二次世界大戦末期、米軍爆撃機が日本の都市にナパーム弾を投下し、空襲火災を引き起こしていた。ナパーム弾は空き缶よりはちょっと大きいぐらいで、光を曳きながら落ちていく様は美しくもある。地表に衝突した瞬間、一瞬静寂が支配し、爆発と共に轟音と炎をまき散らす。日本の住宅地における脆弱な木と紙で作られた家屋は、火に対抗する術を持たなかった。

火垂るの墓(1988)』は、空襲によって住む家を失った、神戸の周辺都市の子供たちを描いたアニメーション映画だ。清太は10代の少年で妹の節子は5歳に満たない。彼らの父親は帝国海軍に従軍しており、母親は空襲で犠牲になった。清太は救急病院で熱傷に覆われた彼女の遺体に対面する。彼らの家も、隣人たちも、学校も、全てが失われた。いったんは小母が彼らを受け入れるも、彼らを食べさせることに残酷になり、結局は清太は二人で住むことの出来る丘の防空壕を見つける。清太は食料を調達するために、両親に対する節子の質問に答えるために、彼の出来ることをする。映画の冒頭において、清太が地下鉄の駅で死ぬ場面が描かれる。そして、我々は節子の運命を想像することができる。我々は少年の魂に導かれて過去を回想するのである。

火垂るの墓(Grave of the Fireflies)』はアニメーションに対する再考を迫る圧倒的な感動すべき体験(emotional experience)をもたらす。当初アニメーションは子供向けの漫画に過ぎなかった。『ライオンキング(The Lion King)』や『もののけ姫(Princess Mononoke)』、『アイアン・ジャイアント(The Iron Giant)』等の最近のアニメーションはより深刻なテーマを扱っており、『トイ・ストーリー(Toy Story)』や『バンビ』のような古典は数人の観客を涙に誘うこともある。しかし、これらの作品は安全な一線を越えることはない。それらは涙を誘いはするが、痛みを伴うことはない。『火垂るの墓』は力強くドラマチックなアニメーション映画で、批評家Ernest Risterが『火垂るの墓』を『シンドラーのリスト(Schindler's List)』と比較して「この映画は今まで見た映画の中で最も深遠なヒューマンアニメーション映画である」と批評したことがよく理解できる。

火垂るの墓』は生き残ることをシンプルに描く。少年と彼女の妹は住むところと食べ物を見つけ出さなくてはならない。戦時において彼らの親類は親切でも寛容でもなく、彼らの小母が兄妹の母親の着物を米を買うために売り払ったときには、彼女はその多くを独り占めにした。結局清太は彼女の元を離れる時だと決断する。清太は少ないお金を持っていて最初は食料を買うことができたが、すぐに買えるものがなくなる。節子はどんどん衰弱していく。彼らのストーリーはメロドラマとしてではなく、シンプルに、ダイレクトに新写実主義の様式で語られる。そしてその中には静寂の時がある。この映画のもっとも素晴らしい贈り物の一つはそれが要求する忍耐にある。映画のショットは我々がそれらについて考えることが出来るよう留め置かれ、プライベートな時間の中にキャラクタの個性が覗き、雰囲気と本質はそれが確立するのに十分な時間を与えられている。

日本の歌人は休止と区切りの中間のような「枕詞」を利用する。偉大なる映画監督小津安二郎は「枕ショット」──詳細な自然の描写を、つまり、2つのシーンを分割するために利用した。『火垂るの墓』もそれらを利用する。そのビジュアルはある種の詩を形作っている。中には爆弾が雨のように降り、通りを埋め尽くす人々を恐怖に陥れる時のように素早いアクションのシーンもあるが、この映画はアクションを乱用せずそれがもたらす結果を重視する。

この映画は最も偉大な日本のアニメーションの供給元であるスタジオジブリ高畑勲によって監督されている。彼の同僚には宮崎駿(『もののけ姫(Princess Mononoke)』『魔女の宅急便(Kiki's Delivery Service)』『となりのトトロ(My Neighbor Totoro)』)がいる。彼の映画は通常このようにシリアスではないが、『火垂るの墓』はそれ自体でカテゴリを形成する。『火垂るの墓』は野坂昭如による半ば自伝的な要素を含む小説に基づいている。彼は焼夷弾が降った時代に少年時代を過ごしており、彼の妹は飢餓によって死亡していることから、彼の人生は罪の意識と共にあった。

その原作小説は日本でよく知られており、実写による映画化の方がより容易く想起されるかもしれない。これはアニメーションの典型的な題材ではない。しかし、『火垂るの墓』にとって、私はアニメーションは正しい選択であったと思う。実写映画は特殊効果、暴力とアクションの重荷に悩んできた。アニメーションにすることによって、高畑はストーリーの本質に集中することができた。彼のアニメキャラクタにおける視覚的なリアリズムの欠如は、我々の想像力をより刺激する。現実の俳優による過度のイメージを排除し、我々は容易にキャラクタを我々自身に重ねることができるのだ。

ハリウッドアニメーションは、矛盾した表現に見えるかもしれないが、数十年間「写実的アニメーション」の理想を追求してきた。描かれる人々は撮影された人々のようには見えない。彼らはより形式化され、より明確に記号化され、(ディズニーが骨の折れる実験の末発見したように)彼らの動きはボディランゲージを通して気持ちを伝えられるように誇張されている。『火垂るの墓』は『ライオンキング』や『もののけ姫』のリアリズムを追求していないが、逆説的には『火垂るの墓』は私が今まで見たものの中で最も写実的なアニメーション映画だ──心情的な面で。

舞台と背景は18世紀の日本人浮世絵師、安藤広重と彼の現代の弟子エルジェタンタンの冒険旅行の作者)の影響を受けたスタイルで描かれている。その中にはアニメーションの枠に留まらない素晴らしい美しさがある。キャラクタは大きい目と子供的な体型、素晴らしい柔軟性の特徴(口は閉じているときには小さいが、子供が泣くときには巨大になって、節子ののどちんこまで見える)をもつ、現代的な日本アニメーションにおける典型的な描き方をされている。この映画は、アニメーションは必要ならば、現実を模倣することではなく、それを誇張し単純化することで、感情的な効果を与えることができることを証明している。そのため、映画のシークエンスの多くは経験描写ではなく、感情表現に割かれている。

そこには圧倒的な美しさを伴った数多くのシーンがある。あなたは、子供たちが蛍を捕まえて、彼らの防空壕を光で照らした夜の中にいることに気付くだろう。翌日には、清太は彼の妹が虫の死骸を埋めているところを見つける──そのとき節子は彼女の母親が埋葬されたことを思い起こしていた。節子が泥を使っておにぎりと想像上のごちそうを作り食事を用意するシークエンスがある。砂浜で彼らが死体を見つけ、そして空の彼方にさらなる爆撃機が現れるシークエンスのタイミングと静寂の活用は注目すべきである。

Risterはまた別のショットを挙げている。「清太がタオルで空気の泡を閉じこめ水中に沈めて解放することで、節子が破顔する瞬間がある。そのとき、私は特別な何かを見つけた気がした」

火垂るの墓』の表層の奥には古い日本の文化的な流れがあり、それらは批評家であるDennis H. Fukushima Jr.によって解説されている。彼はこのストーリーの源流を心中の伝統の中に見出した。清太と節子は公然と心中を約束したということではなく、人生が彼らの生きる意思をすり減らしたのだ。彼は彼らの防空壕と丘陵の墓との類似点についても言及している。

Fukushimaは著者の野坂昭如のインタビューを引用している。「たった独り生き残った。彼は妹の死に罪の意識を持っていた。食料をあさる時にも、彼はしばしばまず自分が食べ、妹は次に回した。妹の死因が飢餓であったことは否定できず、その悲しい事実が野坂を長年に亘り苦しめてきた。贖罪の意識が彼が体験を元に小説を書くモチベーションとなった」

火垂るの墓』はアニメーションであって日本の作品であることから、(米国では)あまり見られていない。アニメファンがどれだけこの映画が素晴らしいと主張してもだれもそれを真剣に受け取らない。しかし、今なら英語の字幕や吹き替え付きのDVDが簡単に入手できるし、もしかするとこの作品が受けるべき注目を得ることが出来るかもしれない。その通り、この映画はアニメーションであり、子供たちの目は皿のように大きいが、これは今まで作られた最も優れた戦争映画のあらゆるリストに加えられるべき作品である。

Grave of the Fireflies Movie Review (1988) | Roger Ebert

彼のレビューにおいて戦争は極めて控えめに扱われている*1。米国という戦争の一方の当事者である立場から慎重にその言及を避けたのかもしれないが、この映画の本質が戦争の悲劇の描写やその記録ではなく、戦時において力の無い幼い二人がどのように生きたのかという部分にあると感じたからだと思う。つくづく、「4歳と14歳で、生きようと思った」というキャッチコピーは本当によくできている。日本が長年培ってきたアニメーションの技法を駆使し、豊かな感情に訴える作品を創れば、世界に十分受け入れられる作品が出来る。『火垂るの墓』はそれを体現した作品であったと言えるだろう。

一つ心配なのは、現在の日本においては残念ながらそうした作品が生まれる土壌が失われているのではないかという懸念なのだが、『火垂るの墓』に続く作品は今後生まれるのだろうか?

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*1:Wikipediaには、"Some critics (most notably Roger Ebert) consider it to be one of the most powerful anti-war movies ever made."という記述があるのだが、少なくともこのレビューにおいては彼は反戦映画だとは一言も言っていない。別の媒体でそのような言及があるのだろうか。