『千と千尋の神隠し』に対する最も参考になる米Amazonレビュー

以前紹介したように『火垂るの墓』に対する米Amazonレビューは極めて高い評価を保っているが、2009年現在ではより多くのレビュー数を有するアイテムが複数存在し、米Amazonレビュー数最多という評価は正しくない。

もちろん、だからと言って作品の評価が落ちることはないことは言うまでもないが、日本製映画に限れば、本日時点で米Amazonで最もレビュー数が多いのは、『千と千尋の神隠し』となっており882のレビューが集まっている。ちなみに2位は822で『もののけ姫』となっており、双方とも平均4以上の高い評価を得ている。

本エントリでは、『千と千尋の神隠し』に対する米Amazonレビューの中から、最も参考になると評価されたレビューを紹介したい。『火垂るの墓』では感情に訴えるレビューが印象に残っているが、『千と千尋の神隠し』のレビューは、映画をより深く理解するための背景説明を行うものが多いようだ。『千と千尋の神隠し』という作品自体、感動を呼ぶというよりは、千尋が迷い込んだ世界を楽しむという感覚が強いところも、より深く楽しむための説明が望まれる理由かも知れない。最も参考になると評価されたレビューは日本人によるもので、実にマニアックだ。

また、日本人の親の中に『千と千尋の神隠し』を子供に見せることを躊躇する人はあまり多くないと思うが、米国人ではそういう部分を気にする人が多いことを窺わせるレビューとなっており興味深い。

751人中、730人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
日本語を話せないファンへのヒント:傑作! 2002/9/16
By Tsuyoshi

日本で2001年7月20日に公開された『千と千尋の神隠し』はほぼ10ヶ月にわたり映画館で上映され続け、『タイタニック』や同じ宮崎駿監督の『もののけ姫』を含むあらゆる過去の興行成績を上回った。少女の霊的な旅を描く驚くべき映画によって、宮崎監督は自らが世界で生存する最も優れた監督の一人であることを改めて示した。このアニメーション映画はベルリン国際映画祭において金熊賞を受賞したが、この映画を見れば、それがまったく不思議でないことが分かるだろう。

この映画のストーリーは少女の奇妙で素晴らしい異世界の生活を追ったもので、そこでは彼女の両親は図らずも魔法的な力によって姿を変えられ、彼女は自分自身で生き延び、元の世界に帰らねばならなかった。そのために、丸顔の少女である千尋は強欲な魔法使いである湯婆婆に名前を奪われ、日本の八百万の神々が休息にやってくる湯屋で働くことを強要された。千尋の生活はとても不思議なもので(そしてしばしば苦しく、恐ろしくもある)、それらの経験を通して千尋はどうやって生きていくかということを学ぶ。真の意思と力を得て、車の後部座席でけだるそうにしていた少女は、元気で本当に勇気のある少女へと変わるのだ。

この映画を見る上であなたが知っておかなければならないことは、予告編を見る必要はなく(英語バージョンの予告編は少し誤解を招くおそれがある)、直接この傑作を見れば良いということだ。カオナシ(顔が無いという意味)というキャラクターがいて、寂しさから湯屋を大混乱に陥れたり、強烈な悪臭を放つオクサレ様がまったく違う姿に変わるエピソードがあるが、悪役も正義の味方も、いわゆるアクションも存在しない。この映画は日本と西洋の伝承の寄せ集めがベースになっている(魔女の仕事場は明らかに西洋風だが、千尋と他の女性の労働者の部屋は100年前の織物工場の少女たちの住居にインスパイアされている)。驚くべきことに、ある部分は中国の様式から来ている。

このストーリーでは、誰かが正しく指摘するだろうが、(2時間以上の映画の)後半部分の進行は緩やかになる。しかし、『千と千尋の神隠し』は決してあなたをがっかりさせないだろう。あらゆる米国人の観客が宮崎監督の名前を知り、アニメーション映画が決して子供たちだけのものではなく、大人も楽しめるものであることを知る時が来たのだ。

[以下はこの映画のいくつかの部分を理解する助けになるだろう。ネタバレは含まないが、映画を見た後に読む方が良いかもしれない。引用されている全ての名前は日本のオリジナルプリントからのものだ。]

[1] 「千尋」という名前は、漢字で書かれた場合には二つの部分に分かれる。「千・尋」。最初の「千」は彼女に与えられた仮の名である「千(せん)」の別の発音である。
[2] 千尋の本名は「荻野千尋」で、彼女がサインした契約書にちらっと見える。
[3] 千尋に助けを申し出た美形の少年は「ハク」と呼ばれる。日本語で「白」という意味だ。
[4] ハクの本名は「ニギハヤミコハクヌシ(饒速水小白主)」。千尋がそうであったように、全ての日本の観客はこの長く古めかしい名前を聞いて驚いただろう。これは明らかに彼の古代の貴族の出自を示すものだ。
[5] 魔女の甘やかされた赤ちゃんは「坊」と呼ばれる(彼の名前は腹掛けに目立つ漢字で書かれている)。これは冴えたネーミングで、というのは坊やという単語(男の赤ちゃんを愛情を込めて呼ぶ場合に使われる)は、母親の行きすぎた愛情を仄めかすからだ。
[6] 千尋の父親は壊れた赤いゲートのところで、物知り顔でテーマパークの残骸の可能性について言及した。日本が80年代のブームの後の不景気を経験したのは確かで、彼の発言は、半分は思い過ごしであったにせよ、幾分かの真実を含んでいたと言える。
[7] 宮崎ファンにはいくつかの別の楽しみ方がある。たとえば、たとえば「ススワタリ」の再登場──ボイラー室で石炭を運んでいた──がある。ファンなら知っているように、ススワタリは宮崎監督の魅力的な映画である『となりのトトロ』にも登場していた。そして油屋に来たゲストの1人は、まさにトトロの様な外見でトトロのように動いている。
[8] これらの無害なススワタリは日本の伝統的なとても甘い糖菓である金平糖を食べる。この組合せが意外なので日本の視聴者はクスリとする。
[9] 同じボイラー室で蜘蛛のようなベテラン熟練者の釜爺が、千尋に電車のクーポンタイプの切符である「回数券」をくれる。ここはまたクスリとさせられる場面だ。我々は電車かバスでどこかに行く子供たちに回数券を与えたり、机の中のどこかからとても古い回数券を見つけた経験を共有しているからだ。
[10] 千尋が虫を踏んづけた時、釜爺は手をナイフのようにして切る動作を行う。これは何かとても汚いものにさわった時に、それからの完全な安全の印を切る非常に古い慣習で、「えんがちょ(縁切った)」という日本語と共に使われる。ここもまた楽しい部分だ。
[11] オープニングシーンで、千尋の後方に有名なブランドに似た赤いパッケージのチョコレートバーが半分ほど覗いていることに気付いた人がいるかも知れない。もしかするとこれは日本の映画プロモーションのタイアップキャンペーンに参加した企業(コーヒーでも有名)への感謝のしるしかもしれない。
[12] 最後に宮崎監督はこの映画はもともと彼と映画プロデューサの共通の知り合いである10歳の少女たちがこの映画を見て楽しむように作られたと述べている。彼女たちが楽しんだことは間違いない。

276人中、254人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
新鮮な空気を運ぶ素晴らしい息吹, 2003/3/15
By Jason Rabin (Toronto, Ontario Canada)

千と千尋の神隠し』は日本アニメーションの真の第一人者による傑作です。実際、私にとっては、『もののけ姫』には及びませんが、この5年間に作られたあらゆるディズニー映画よりもずっと面白かったです。ディズニーに関して言えば、ここでこの映画に対して懸念を持っている人のいくつかの誤解を解いておきたいと思います。第1に、宮崎アニメは(他のアニメと同様に)大人向けで子供向けではないと文句を言う人々がいます。宮崎監督はこの映画が少女たちのために(別の言い方をすると、千尋の年代に向けて)作られたとはっきりと述べています。ただし、思春期前の少女しか楽しめないというわけではありません(私は22歳の女性です)。これは単に『もののけ姫』のような大人に向けの展開を期待してはいけないということを意味します。

ここの他のレビューを見ると、数人の方々が『千と千尋の神隠し』をディズニーと比較しているようです。『千と千尋の神隠し』は怖い部分があるので、ディズニーとはまったく似てないことは皆さん同意されているようです。『千と千尋の神隠し』は子供たちに見せるのに相応しくないと仰っている親御さんもおられるようです。私は、それには正しい面も、間違った面も両方あると思います。『千と千尋の神隠し』は確かに「今の」ディズニーとは似ていません。しかし古典の『白雪姫』や、特に『ピノキオ』を見れば、それらが『ヘラクレス』や『ターザン』よりも『千と千尋の神隠し』と多くの共通点をもつことがわかるでしょう。私としては、『千と千尋の神隠し』は子供たちに見せるには怖すぎると主張する人たちは、ディズニーがかつてどうであったかということを思い出すべきだと思います。『白雪姫』では、邪悪な女王は白雪姫の心臓を狙ってハンターを雇います。さらに言えば、『ピノキオ』では主人公は、無慈悲にも獣の姿に変えられ奴隷として売られた、悪戯好きの子供たちの島に最後にたどり着きます。誠実に言って、これらが『千と千尋の神隠し』よりもより健全とか、悪夢のようでないとか誰が言えるでしょうか? これらの映画を覚えている人ならば、『千と千尋の神隠し』の道徳感と正義感の悪夢(親たちは強欲のために豚の姿に変えられます)は、アメリカ人の想像力にとっては新しいものではなく、私達が子供の時に触れたのにすっかり忘れてしまったものであることを理解できるでしょう。これは、アメリカ人がより明確な道徳観を持っていて、正しいことと悪いことの間に絶対的な線を引こうというより強い意思を持っていた時代を思い起こさせます。私にとって、これは面白い体験でしたが、あなたにとってはそうでないかも知れません。あなたの子供たちにとって怖いものであるかも知れません。そうした可能性があることは認めます。私は『白雪姫』や『ピノキオ』を見た時に泣きましたが、私はそれら2つの映画をとても楽しみました。さらに、それらは両方ともアメリカのアニメーションの真の古典的名作であるとみなされています。『千と千尋の神隠し』を異質なものを忌み嫌うように遠ざけて安心している全ての親たちに、もっと身近なところを見て欲しいと思います。何故ならそれはあなたが思うほど異質ではないのですから。

62人中、59人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
たった一言、わお! 2002/11/4
By Christopher Fung (honolulu)

私はこの映画を2回みましたが、通常私はそのようなことはしません(私が最後に2回見た映画は『グリーン・デスティニー』で、実際これら2つの映画には興味深い類似点があります)。まとめると、本当に素晴らしい名作です。楽しく、感動的で、美しく描写され、そしてもしかすると小さい子供たちにとってはちょっと怖いところもあるかもしれません。あなたは一つの判断をしなくてはならないでしょう。もしあなたの子供たちが『バッフィ』やバンビの母親の死を見ることが出来るのなら、子供たちは確実に感情を制御できるでしょう。

宮崎監督は今までで最も偉大なアニメ監督(もしくはその中の一人)と評価されています。そしてこの息を飲むほど美しく紡がれた映画は彼の今までで最も素晴らしい映像作品です。実際、この映画の唯一の欠点はエンドクレジットに流れる吐き気を催させる音楽であると思いますが、それでさえ現代アジアポップカルチャーの文化的体験の一部であり、嘔吐感に襲われるように出口に走らされたとしても意義があります。

私はキャラクターが一面的であると考えるレビュアーの意見には賛同できません。プロットがとても直線的であることは事実ですが、映画の中には興味深いキャラクター造形を示唆する多くのささやかなヒントがちりばめられています。これは(私が思うに)吹き替えバージョンよりも字幕バージョンの方がより明確です。千尋/千はかなりわがままで甘えん坊だったのが、自立して自信に溢れるようになります(この点は吹き替えバージョンのラストシーンでナレーションによって強調されています。無くて良いと思いますが)。ハクは映画の中において優しく高貴な竜ですが、実際には千尋から苦団子を与えられ虫を吐き出すまで真価を発揮することができませんでした。その時点までハクは彼の種族の衝動(日本語バージョンでは、銭婆は千尋に「竜はみな優しいよ。優しくて、愚かだ」と告げます)と、湯婆婆と協力する(もともとの)意思の間でがんじがらめになっていました。骨の髄から強欲な湯婆婆でさえ、完全な悪人ではありません(「まったく……つまらない誓いを立てちまったもんだよ」)。

この最後の点は、私が思うに、この映画における宮崎監督の重要な考えのひとつだと思います。私はカオナシのキャラクターを2週間考えつづけて、初めてこの事実に気付きました。私にはなぜ実体を持たない霊魂が、大人しく高潔な幽霊から、強欲で貪欲な怪物に変わってしまったのか不思議でした。そして現代の独占欲の強い物質主義社会に対する宮崎監督の控えめながら辛辣な拒絶がその答えだと思います(彼が批判しているのは西欧社会ではありません。精神主義がアジアを示さないのと同様に、物質主義は西欧社会を意味しません。世界のどこに行ってもこうした傾向はあるのです。単に程度とその内容に対する疑問なのです)。

千尋は「あのひと(カオナシ)油屋にいるからいけないの。あそこをでたほうがいいんだよ」と言います。千尋カオナシに苦団子を与えた後、カオナシは(いくぶん映像的には)元の姿に戻りますが、圧倒的な欲望と贅沢(湯婆婆によって提供されますが、決して現実になることはありません)の精神が充満した油屋の環境は、宮崎監督の現代社会に対する批判そのものです。

湯婆婆による支配が確立した過程を考えてみましょう。全ての人は生きるために働かねばなりません。仕事には終わりはなく、一時的に仕事に満足したり褒められたりしても、長い目で見れば、ハリウッド映画のようなドラマチックな銃撃戦ではなく、緩やかで退屈な死の毒に蝕まれるうんざりするほど単調な仕事なのです。釜爺さえ職場から逃げるための電車の切符を隠し持っていました。もしかするとこじつけすぎるかも知れませんが、千尋の神々の世界の旅と、精霊たちの湯婆婆の牢獄から抜け出たいという願望は、日常と所有欲に捕らわれた世界からの逃避への人間の魂の願望の表明かも知れません。もしかすると油屋の(湯婆婆を除く)みんなが千尋を助けたのは、彼女が自由への戦いを代表していたからかも知れません。

悪臭を放つオクサレ様の騒動もまた、環境を尊ぶ宮崎監督の批判の顕れでしょう。工業文明は川の美しさと力を失わせ、有害な廃棄物と工業汚染物質の山で埋め尽くしてしまいました。このシークエンスにおけるヴィジュアルは呆然とさせられるものです。

対照的に、宮崎監督が描く神々の世界は、(素晴らしい魅力と不気味さが一時に同居するゴーストタウンのようなテーマパークを除いて)ずっと田園風景が続く感情に訴え記憶に残る美しさを有しています。しかし、私のお気に入りは宮崎監督が彼の才能を遺憾なく発揮し、水の微かな煌めきやさらさらとした音の本質を克明に描き出した電車の旅です。神の世界の電車の旅では言葉に表せない(日本的な)悲しみが描写されています。

この国は誰もそうであるようには見えない場所です。外見が如何に美しくても意味がないのです。人々は豚になり(もしかすると人類の酷い性質を表しているのかもしれません)、幽霊は怪物となり、銭婆はあくどくも母のようでもあり、ハクは龍であり少年でもあります。映画中最も暴力的なシーン(少なくとも懸念するような残酷なシーンではありません)においても、紙で出来た鳥が登場したことを思い出して欲しいです。

とにかく、私はこの映画が単純な映画だとはまったく思っていません。どうか見てください。もしあなたが魂を半分しか持っていなかったとしても、失望することはないでしょう。この映画はずっと長い間あなたの心に残り続けて、数年後またもう一度見たいと思っている自分に気付くような映画です。たぶん1度以上は。

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