日本経済新聞電子版はなぜこんなに高いのか?

前回のエントリでは、日本経済新聞 電子版の価格設定に関して、『予想どおりに不合理―行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』に基づき、日経の狙いを考察した。元々エントリ化する予定も無かった話だが、望外にも多くのアクセスを頂いている。

実は、本書の第2章「需要と供給の誤謬」を見ると、なぜ日経が月額4,000円という高額な価格設定を行ったかについて、もう一つの理由が見えてくる。そこで、前回に引き続き、本書に基づき、高額な価格設定の狙いについて考えてみたい。月額4,000円という金額はたとえば産経NetViewの月額420円に比べて明らかに高い。なぜこんなにも高い価格となったのだろうか?*1


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アンカリング

タヒチで生産される黒真珠は当初販路が無く需要もほとんどない代物であった。しかし、ダイヤモンド商ジェームズ・アセールは黒真珠のプロモーションに際し、旧友の宝石商ハリー・ウィンストンに、ニューヨーク五番街にある店舗のショーウィンドウに黒真珠をディスプレイし、法外に高い値段を付ける事を約束させた。そして、アセールは同時に豪華なグラビア雑誌に黒真珠の全面広告を出した。このプロモーションにより、誰も価値を知らなかった黒真珠は、あっという間にとんでもない高級品に変貌したそうだ。

雁の雛が生まれて最初に見る動くものを親だと思い込む刷り込み(インプリンティング)はよく知られている。一方、我々の価格に関する見方にも同様の傾向がある事が分かっている。アセールは、登場時から黒真珠を世界最高級の宝石として消費者に刷り込んだのだ(アンカリング)。そのため、以降ずっと黒真珠にはその価格がついてまわる事となった。我々は、一度新製品をある価格で買うと、後々まで同一ジャンルに属する製品に関しては、その価格に縛られる傾向がある。

ここで、アンカリングの効果を確かめる実験が紹介されている。この実験では不快な音に価格をつける評価を行っているが、その理由は不快な音に対する市場が存在せず、実験参加者が不快な音に対する既存のアンカーを有していないと期待されるからだ。

遭遇時のアンカリング

実験では、まず、2つのグループに対して3000Hzの高音からなる不快音を聞かせた直後に、第1のグループには10セント、第2のグループには90セントの報酬が支払われるとしたら、もう一度同じ不快音を聞いても良いか?との質問を行った。これは実はアンカリング用の質問で、これにより第1のグループには10セント、第2のグループには90セントという金額がアンカリングされることとなる。

ここで、「最低いくらもらえるならもう一度音を聞いても良いか?」と質問すると、第1のグループは平均33セント、第2のグループは平均73セントという回答となり、先ほどの質問において提示した金額が影響を及ぼしている事が分かる。それぞれのグループでは、不快音という価値の分からぬものに対して、それぞれ異なる価格をアンカリングされたのである。

未来の価格への影響

続いてホワイトノイズからなる不快音を聞かせた後、第1のグループ、第2のグループ双方に「もし50セント支払われるとしたら同じ音を聞いても良いか?」との質問を行った。今度は両方に50セントという金額をアンカリングしようと試みたわけだ。

ここで、「最低いくらもらえるならもう一度音を聞いても良いか?」と質問すると、第1のグループは第2のグループよりもはるかに低い金額を要求した。アンカリング用の提示は同じであるにもかかわらず、不快音に対する最初のアンカー(10セントもしくは90セント)が優勢だったことが分かる。これは、アンカーが現在の価格にも未来の価格にも影響を及ぼす事を示している。

最初のアンカーの重み

最後に今度は高低が激しく変動する不快音を聞かせた後、第1のグループには90セント、第2のグループには10セントの報酬が支払われるとしたらもう一度同じ音を聞いても良いか?との質問を行った。ここまで第1のグループは10-50-90セントという提示を受け、第2のグループは90-50-10セントという提示をうけてきたこととなる。最初のアンカーと直近のアンカーとどちらの方が優勢だろうか?

今までと同様に「最低いくらもらえるならもう一度音を聞いても良いか?」と質問すると、第1のグループはアンカーとして90セントが提示された後も低い報酬を受け入れた。一方で最初に90セントのアンカーを提示された第2のグループは、その後に違うアンカーが提示されたとしてもはるかに高い報酬を要求し続けた。これは、最初の決断がその後の決断に長い間影響する事を示している。最初に遭遇し判断に影響を与えたアンカーが、ずっと後までついてまわるのだ。

日本経済新聞 電子版の価格設定

さて、日本経済新聞 電子版は日本で初めてといって良い本格的な新聞電子配信サービスである。ここで仮に低い価格を付けてしまうと、この先、日本国内の新聞電子配信サービスにはその価格がアンカーとしてずっと影響を及ぼすことになる。国内随一の経済紙としての自負をもつ日経は最初に電子化に踏み出す以上、下手なアンカリングをするわけにはいかなかったのだ。

新聞社は長期的には電子化が避けられない事に気付いている。充分な体力があるうちに電子配信サービスによって充分な収益が得られる仕組みを構築できなければ、市場から淘汰される事に気付いている。一方で、現状の全国津々浦々までカバーする新聞紙配信インフラを一気に崩壊させるような性急な変化はリスクが大きすぎる。そこで彼らが狙ったのは、紙配信ビジネスを時間をかけて電子配信ビジネスへとゆるやかに変化させていくソフトランディングだ。それが「紙の新聞の部数に影響を与えないことを前提にした価格設定」であり、前回のエントリで扱った紙+電子版のセット配信へ消費者を誘導する仕掛けなのである。

将来的に電子配信ビジネスで新聞社を存続させようとした場合、配信価格は現状の購読料金に比べて極端には安くはできない。勿論、紙配信のための制作費やインフラ維持費は安くなる事が期待されるが、最初のアンカーを低く設定してしまうと、新聞業界全体の収益体質を弱体化させてしまうことになる(たとえば月額420円という価格設定ではとても新聞社は維持できそうにない)。そのため、彼らは高いと批判されることを承知の上で、4,000円という高額な価格設定を行ったのだ。先の事を考えて。

新聞記事のアンカー

ところが、現在Web上では多くの新聞記事を無料で購読する事ができる。言うなれば我々は新聞記事に対し無料というアンカーを保持している状況にある。このアンカーを保持する者にとって、4,000円という価格は異常に高くとても受け入れられるものではない。つまり、このアンカーが使われる事がないように、無料の記事とは全く異なったものだとユーザに認識させなければならない。

たとえば、スターバックスが登場した際には、ダンキンドーナツが安い価格でコーヒーを提供していた。人々はコーヒーの価格に対して、ダンキンドーナツの価格をアンカーとして所有していたはずであり、スターバックスは人々がコーヒーを飲むのに払っても良いと感じる価格よりも高い価格設定となっていた。

それでもスターバックスが成功したのは、価格ではなく雰囲気の面で他の店と一線を画すようにしていたからだ。ヨーロッパのコーヒーハウスの風情をもつ洒落た店内には、炒りたての高級豆の香りが立ちこめ、アーモンドクロワッサンやビスコッティなど見栄えのする軽食を並べた。そして、カフェアメリカーノ、カフェミスト、マキアート、フラペチーノなど高貴な名前の飲み物を売った。このように入店の体験が他とは全く異なったものとすることで、ダンキンドーナツのアンカーではなく、スターバックスが用意した新しいアンカーを利用するように仕向けたのである。

人々に、日経が他のWeb上で無料で読める新聞とは全く異なったものであることを認知させ、新たに用意したアンカーを利用させるための差別化が、日経の経済記事の全文配信であり、リコメンドやクリッピングからなるパーソナライズ機能である。しかし、パーソナライズ機能は他のWebサービスでも実現可能な範囲に留まっており、ユーザのアンカーを初期化するには力不足かも知れない。特に無料という価格設定は強い魔力を有しており*2、これに打ち勝つのは並大抵の事ではない。

一方、日本経済新聞は紙媒体の月ぎめ購読料(3,568円/4,383円)もアンカーとして利用させる事ができる。こちらのアンカーを使わせる事ができれば、4,000円という価格はリーズナブルに見える。今なら年配層を中心に、日本経済新聞のブランド力は強固に存在する。このアンカーを利用させるための一手が、月ぎめ購読料に+1,000円で電子版の購読権も付随する日経Wプランであるわけだ。

このように、日経は既存の紙媒体の購読者を維持しつつ、時間をかけて電子媒体に誘導する戦略をとっている。紙+電子媒体のセット販売を当面の本命に据え、既存の紙媒体顧客、紙流通インフラを当面の間維持することで、穏やかな電子媒体への移行を目論んでいるのだろう。そして、将来の収益構造を強固にする目的で、電子媒体に対し、高い価格のアンカリングを指向している。そこには長期的な視野に立った経営戦略が確かに存在する。

これが日経の目論み通り運べば、将来的に紙媒体の新聞がずっと縮小した後も、有料で高価な電子媒体の新聞記事が潤沢に供給される世界となるだろう。月ぎめ料金は最初のアンカーよりは市場原理に従い安価になるだろうが、新聞社を存続させるのに充分な収益を上げるぐらいの価格になるはずだ。

もちろん、目論み通りに事が運ぶかどうかは、別の話だけど*3

参考文献

予想どおりに不合理―行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」

予想どおりに不合理―行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」

*1:高いと感じる事自体、既存のアンカーに影響されているわけだけれど。

*2:予想どおりに不合理』の3章「ゼロコストのコスト」には無料がもつ絶大な威力について紹介されている。

*3:特に新規顧客の取り込みをどのように行っていくかが明確ではない。既存顧客の移行にはある程度成功するかも知れないが、ネット世代の新規顧客をどのように獲得するかに関しては具体的な方針が示されていないのように見える。ネット世代は無料という強力なアンカーを有しており、それが今回の発表に対する強い反発を生んでいる面もあるようだ。